越えたい、だけど変わりたくない

名前を呼んで、と大切な人が願った。
だから、僕はその人の名前を呼ぶ。

「玄奘」

お師匠様、の方が呼び慣れているけど。
僕が名前を呼ぶ、ただそれだけのことで、こんなにも喜んでくれる。
それが嬉しくて、何度も、何度も名前を呼んだ。

「玉龍、あの……嬉しいのですけど、もっと自然に呼んでくれるようになって欲しいのです」
「自然に?」

首を傾げて尋ねれば、お師匠様はすごく優しい笑顔を見せてくれる。
時々は困ってる笑い顔になるけど。
お師匠様の笑顔は、とても綺麗で、それを見ると僕は嬉しくなる。
最近は、嬉しいだけじゃなくて、なんだか胸がいっぱいになるんだ。

こんなに綺麗なお師匠様の笑顔を、他の誰にも見せたくない。
僕だけに笑っていて欲しい。

今までの、お師匠様の願いを叶えたいという思いだけじゃない気持ちが、たくさん湧いてくる。

「私は、玉龍と対等でありたいのです。師と弟子、ではなく……どちらが上でも下でもない関係でありたいと、思うのです」

難しい。よくわからない。
今まではそう返してきたような、お師匠様の言葉。
だけど、なんとなくわかるようになってきた。
人間になって、色んな人間を見てきたから。

「……うん」

わかる、けど。

「だけど……怖いんだ」
「怖い、ですか?」

聞き返すお師匠様を抱きしめる。
温かくて、柔らかくて、小さな、かけがえのない人。
傍にいると安心できた。以前は。

「僕も変わりたい、けど……お師匠様を変えてしまいそうで、怖い」

自分が変わっていくのは、わかるようになってきた。
前より、人間のことが嫌いじゃなくなったし。
殺したり、壊したりする以外の、いい解決方法があるってことも、考えるようになった。

お師匠様に触れたいって思うようになって。
旅をしていた時に見た、八戒が女の人にするような触れ方も、したいと思って。
今も、触れていて安心できるのに、心臓が跳ねる。

いつか言われた。
お前だって一応男なんだから、って言葉の意味が、わかるような気がする。
お師匠様が、女だってことも。だから。

「怖いんだ」
「大丈夫」

きっぱりと断言されて、でも、と離れようとする。
僕が抱きしめたはずなのに、いつのまにかお師匠様に抱きしめられていた。
温かい手。細いのに、強い。

「人間は変わるものです。それでも、本質はそうそう変わるものではありません。大丈夫ですよ。それとも……あなたが守った私は、そんなに頼りない人間でしたか?」

下から覗き込むようにして笑ったお師匠様は、今まで見た中で一番綺麗だった。
だから。
大丈夫と言ってくれたから。

「そんなことない。きっと、なにがあっても、あなたはあなたのままだ」

自然と頬が緩んだ。
琥珀の瞳に僕の姿だけが映る。


唇が触れ合う。ただそれだけで、どうしようもなく愛しさがこみ上げてくる。
柔らかい感触を、もっともっと感じたくて、知りたくて。
誰かに教わったわけでもないのに、深く口付けていた。

「ぎょく、りゅう……」

はぁ、と零れた吐息に胸が高鳴る。
寒くないのに赤く染まった頬も、触れる前より鮮やかな唇も。
全部が愛しい。


「変えてもいい? 玄奘」


きっと、嫌じゃないよね。
尋ねた僕に、溶けそうな笑顔で、はい、と答えてくれた。