君と僕との適切な距離

急に振り出した激しい雨。
それ自体は、彼にとって気にするような事でもなかった。
のだが。

「銀閣、あなたは大丈夫なのかも知れませんが……」

雨音にかき消されそうに細い声が、彼を呼んだ。
逃げられないようにと掴んでいる手が震えていることに、ようやく気づく。

「私は人間なのでこの雨の中進むのは辛いのです。せめて雨があがるまで、どこかで休ませてはもらえませんか?」
「あ。そ、そうですよねえ……すみません、うっかり忘れてました〜」

どうにもズレた感覚の持ち主のようだが、一応本気で悪いと思ったらしい。
豪雨で視界は最悪だが、妖怪の目は人と違うのか何か見つけた銀閣が、失礼しますと呟いた。

「はい?」
「こっちの方が早いので」

にっこりと唇が笑みの形になるのを見た、次の瞬間。

「きゃぁ」
「おとなしくしててくださいね。暴れると危ないですよ〜」

玄奘は荷物さながら、銀閣の肩に担がれた。
そうしておいて駆け出した銀閣の足は、確かに早く、あっと言う間に廃村に辿り着いた。
こういった場所で、一番建物の造りがしっかりしているのは、大抵の場合お堂である。

「わぁ、本当に三蔵さんの言った通りですね〜」
「ええ、まぁ……旅の間にも、こういったことはありましたし」

素直に感心する銀閣に言葉を返しながら、玄奘は震える身体を抱きしめた。
いくら割合暖かい地域でも、夜ともなればそれなりに冷える。
その上に全身雨に濡れてしまっていては、風邪を引くのも時間の問題だ。
濡れた服を絞れば、いくらかマシにはなる。

「あの、銀閣……少しの間、あちらを向いていてもらえますか?」
「え? どうしてですか? その間に逃げたりとか、そういうのはダメですよ〜」

鈍い。人間と同じ感覚を求めるのが間違っているのかもしれないが。
一応人型で、しかも男性なのだから、察してくれてもいいのに。
と心の中で不満を吐きつつ、逃げないから少しだけ、と言いかけて。

「くしゅん」

かわいらしいくしゃみに、銀閣が目を丸くした。
一方で玄奘は恥ずかしさに身を縮める。

「う〜ん……得意じゃないんですよね、こういう小技」

よくわからないことを呟いて、一瞬妖気を放つ。
何が起きたがわからなかった玄奘が、え、と声を零した。

「ああ、よかった。成功しましたよ〜」

ひょいと真横に座り込んだ銀閣が、玄奘の髪を持ち上げる。

「あ、あの?」
「ぼくの妖気で水気を飛ばしたんです。やりすぎると、即席ミイラになっちゃいますけどね〜」

にこやかに説明する銀閣に、ぞっとする。
危うく人生が終了するところだった。しかも知らぬ間に。

「そういうことは……やる前に許可をとってください。私が死んでは意味がないのでしょう?」
「はい。だから、ものすご〜く集中して、気をつけてやりましたよ〜」

確かに、無事成功したおかげで髪や服の重く冷たい感触はもうない。

「……そう、ですね。随分マシになりました。ありがとうございます」
「いえいえ。これも蘭花様のためですから〜」

嬉しそうに答える銀閣の、目深に被ったフードから、ぽたりと水滴が落ちた。

「あの……銀閣」
「はい、なんですか〜?」
「あなたは、寒くないのですか?」

問われた銀閣は、驚いた。
この状況で、まさか敵で妖怪だと知れている自分の心配をするのかと。

「え〜と、そうですね〜……ちょっと冷たいな〜、くらいの感覚はありますけど」

別にこの程度で死にはしないし、と続けるつもりだった。
玄奘に遮られなければ。

「そんな! いけません、感覚が鈍くなると逆に危ないのですよ!?」
「え、いや」
「先ほどの水気を飛ばす、というのをご自分にもできないのですか?
 私を気遣ってくださるのは嬉しいですけど、まず自分のことを考えてください。
 ああ、とにかくその外套を脱いでください。絞れば少しはマシでしょう」
「あ、あの、三蔵さん」
「さすがに室内で火を焚くわけにはいきませんけど、寄り添えば温もりを分け合えます。
 不本意かも知れませんが、非常事態ですから、我慢してください」

半ば以上圧倒された形で外套を奪われた銀閣は、指先を赤くしながら水を絞る玄奘の横顔を見つめた。
相手が妖怪だとか敵だとか、そんなことをまるで考えていない、真っ直ぐすぎる瞳。
彼女自身も、万全ではないらしく青味を帯びた白い肌。
華奢な肩に手を伸ばし、触れる前に引いた。

もうすでに、命を捧げる相手を心に決めているのだから。
触れてはいけない。惹かれては、いけない。

絞った外套を広げて数度振り、水気が軽くなったのを確かめて、玄奘が振り向いた。
目を合わせられない。

「これで先ほどよりはマシになったと思いますけど」
「……ありがとうございます」

逃げるように外套を羽織り、フードを深く被る。
だけど彼女が逃げないように手だけは掴んだ。

彼女は敵で、大切な人の目的のための、ただの手段。
近づいてはいけない。離れることはできない。


声が届く。手が届く。だけど、決して近くない。
君と僕との適切な距離。