涙を零して立ち上がる

大石の手が、攫うように倫を抱き寄せた。
え、と零した唇を塞がれて、一瞬、見開いた目を誘われるように閉じた。

じんと痺れが広がり、身体の力が抜ける。

愛しい、と伝わるのはどちらの想いか。
どんな極悪人であろうと、血の通った温かい生き物なのだと、倫ははじめて知った。
いっそ熱いほどに、触れ合う唇から熱を感じる。
それは、大石のものだろうか。それとも、倫の内から放たれているのか。
どちらでもいい。と倫は短刀を握る手を緩めかけた。

その瞬間。

大石の手が、短刀の柄ごと倫の手を掴み寄せた。

ずぶり。生々しい、肉を貫く感触。
倫は目を見開いた。
心まで見透かしてしまいそうな瞳を閉じていれば、ひどく整った、まるで人形のような造作だけが際立つ。
けれど、それは大石ではないように見える。

目を、開けて。私を見て。

倫は腕を流れて落ちる血の熱さに、泣き出しそうな顔で願った。

「……ああ、お前は……俺を殺したら、そんな顔をするんだ……」

願いを感じ取ったのか、目を開けた大石はそう言って、幸福そうに、けれどわずかに切なげに笑った。
違う。と倫は顔を歪める。
濃い血の匂いが、倫に染み付いていく。

「ふふ……お前は、あたたかいね。……もっと早く、こうして触れていれば、よかったな……」
「お、大石、さん……手を、」

離して、と言いかけた唇を塞いで、大石は喉を震わせて笑う。
倫の唇が戦慄いている。

俺を失うのが、怖い?
唇を重ねたまま視線を合わせていると、倫の瞳から堪えきれないように涙が溢れた。
それだけで、十分すぎる。と大石は甘い痛みを噛み締めた。

「……最高だよ……これ以上の快感は、ないだろうね……」

唇を触れ合わせて囁けば、吐息がくすぐる感触に倫は肩を震わせる。
そんな些細な反応さえ、今はただ愛おしい。
もう少しだけ、見ていたいとさえ、思うほどに。

「……あ」

不意に、大石の身体が力を失くして倒れこんだ。

「……やっぱり、お前を選んで……よかった、よ……」
「大石、さん」

倫は、どこか実感がないまま倒れた大石に視線を落とす。
そして、見なければ良かったと思った。

あいしているよ

大石の唇が、もう声にならない音を零しながら、一言呟いた。
まるで悪意そのものを研ぎ澄ましたような、大石の漆黒の瞳が閉ざされる。
瞬間。
心を奪っていかれたように、するりと倫が膝をついた。

嘘。こんなの嘘。冗談でしょう。

そう叫びたい気持ちは確かにあるのに、倫の思考は冷静だった。
べっとりと腕にこびりついて、固まり始めた赤黒い血。
決して、もう目を開けることはない。
例え今すぐ医者に見せたとしても、助かる見込みはないだろう。

呆然と大石を見つめ続ける倫には、斉藤の声もどこか遠く聞こえる。

大石さん。大石さん。

胸の中で何度も呼ぶ。けれど、一言の声も出せない。
それが無駄なことだとわかっているから。
ここに、もはや大石鍬次郎はいない。
ついさっきまでは、確かに生きていたその人が、失われる瞬間を見てしまった。

「……ずるい、人」

倫は震える唇から、ようやく思い出したように言葉を紡いだ。
そう、ずるい人。最期の最後で、あんな優しい顔をして、心を奪っていくなんて。

いっそあの時。身体も奪ってくれていればよかったのだ。
私に選ばせたりなんてせずに。

そうしていれば、きっと。

「……憎むだけで、済んだはずなのに……」

あるいは、素直に愛していると認められたかも知れない。
今更、詮無いこととわかっていても、倫は思わずにいられなかった。


不意に、激しい銃声と怒号が耳に入った。その音で倫は我に返る。
そうだ。今は戦の最中。しかも、さほど遠くない。
ここにいてはいけない、とやけに冷静な部分が命を下す。

腰を上げかけて、もう一度だけ、大石の亡骸に目を向けた。
けれど、倫は軽く瞑目して視線を外した。

ここには、もういない。どこにもいない。
いるとしたら……

命を奪った、この手の中に。


倫は、いまだ溢れ続ける涙を、振り切るように立ち上がる。
生きる。ただ、その為だけに。