自分には存在する理由がある

少なくとも、自分自身だけはそう思っていたい。
他人にとっては理由にもならないことだとしても。
私にだけは、それが充分な理由になる。

あの人が、生きろと言ったから。


時代が容赦なく押し寄せて、多くの人がいなくなっても、花柳館は変わらず存在している。 薩長軍に加わったという庵の話に驚きもせず、倫は師範代となって門人の指導に努めていた。
「今日はこれまでにしましょう。皆さん、お疲れさまでした」 「「ありがとうございました」」 「あ、あの……倫さん」
解散を指示して踵を返した倫に、育ちの良さそうな青年が声をかける。 振り向いた倫は、小首を傾げて青年を見据えた。
「何か質問でも?」 「い、いえ……その、もし良かったらこれから一緒にお食事でも……」
気恥ずかしげに首の後ろを掻いて、青年がはにかむのと裏腹に、倫の表情がすぅっと冷める。 倫の表情の変化に気付かず、青年は新しく出来たどこそこの飯屋が美味いだのと誘い文句を語っている。 小さく溜息を吐いて、倫は無理やり微笑みを作った。
「折角のお誘いですけど、ごめんなさい」 「え? 何故ですか、金子の心配でしたら」 「そういうことではありません」 「……そ、そうですか。わかりました」
行く気はないという倫の意思を察した青年は項垂れて、とぼとぼと道場を出て行った。
「また断っちゃったの? ご馳走してもらえばよかったのに」
諦め混じりに笑う声に振り返った倫に、おこうは寂しげに笑う。 年頃の少女としては落ち着いた子ではあったけれど、こんな痛々しい作り笑いをする子ではなかった。
「私は居候ですから、お手伝いもせずに外食になんてとても……」 「倫ちゃん。本当にそんな理由で断ったの?」
作り笑いのまま眉尻を下げて困った風に答える倫に、おこうは問いを重ねる。 言葉こそ強くないが、倫を見つめる視線は強い。 黙り込んだ倫は一度俯き、作り笑いのまま首を傾げた。
「違う理由でなければ断ってはいけませんでしたか?」 「そういうわけじゃ……」 「私、道場の前を掃除してきますね」
そういうわけじゃない、けれど。 続けようとしていたおこうの言葉を遮り、倫は逃げるように駆け出した。

竹箒を手に表へ出ると、そこかしこから女達のさざめくような華やかな声が聞こえてくる。 この界隈が賑わう時間が近づいてきているせいだろう。 空はまだ明るいが、西の方は茜を滲ませている。 夕暮れになったと思ってから日が落ちきってしまうまでは早い。 暗くなる前に掃除を終わらせようと手を動かしながら、倫は思わず溜息を零した。
先ほどの、おこうが言おうとしたことは、見当がついている。 倫が甲州から戻って以来、ずっと何かしら言いたげであったことにも気付いていた。
「でも」
ぽつりと呟き、倫は箒を握る手を見つめる。 今も鮮明に残る感触。流れる血の色、そして。
何も、あの人に操を立てるつもりで断り続けているのではない。 ただ、そんな気になれないだけだ。
そう自分に言い訳していることには気付かず、倫は再び溜息を零す。 悔しいぐらい、あの男の望んだとおりになってしまっている。 何をしていても、どんなに忘れようと思っても、考えてしまう。 鮮烈な死の感触と喪失感を刻み付けて逝った男の事を。
あの直後は、いっそ自分も命を絶とうかとすら思った。 けれど、あんな人の為に死んでも誰も喜ばない、それこそ自分自身さえ。 そう思って生きて帰ってきた。 尼になろうかという考えもよぎったが、あの人ならきっと、喜ぶどころか嘲るだろうと。 それも止めた。 さりとて、誰かと家庭を持って平穏に暮らすなんて事もできそうにない。
結局、倫には生きることしか選べなかったのだ。 どんなに憎くても、悔しくても。
「大石さん」
名前を呼んでみても、涙一つでやしない。
愛してしまった、大嫌いなあなたが言うから。 私は今も、生きています。