目隠し一つ
とんとん、と扉を叩く音がする。それは初め、躊躇いがちだったが、徐々に遠慮なくなってきた。
いつまでも鳴り続ける音にうんざりし、ようやく薄っすらと瞼を上げた清雅は、自分が眠っていた事に気付いた。
幸い筆仕事の途中ではなかったが、手にしていたのだろう料紙が膝の上や床に零れている。
忌々しげに舌打ちして、未だ鳴り続けている扉に近づいた。
これだけしつこく鳴らしておいて大した用事でなかったら、そいつにはしっかり報復してやろうと思いながら。
「一体何の用だ」
「あ……生きてたのね。てっきり、とうとう過労死したかと思ったんだけど」
扉を開けた瞬間、安堵の溜息を吐きかけ、慌てて腕組みして不機嫌な顔を作った秀麗に、本当にうっかり、清雅は呆けた。
何だそれは。
「アンタが借りてる資料、必要になったから終わってれば借りようと思ってきたの。過去十年分の冤罪訴訟の資料なんだけど……って」
寝起きは決して悪くないはずの清雅だったが、まるで心配でもしていた風情の秀麗に虚を突かれていた所為か。
秀麗が手を伸ばし頬に触れるのを、黙って受け入れてしまった。
らしくない。と清雅自身が思うのと同じように、秀麗は苦笑を浮かべる。
「らしくないわね、書簡を枕にするなんて。……跡ついてるわよ」
「う、るさい」
本当に、らしくない。仕事中に眠ってしまう事もそうだが、それ以上に、少年のような表情で秀麗の手を跳ね除けた仕草が。
秀麗は思わず、可愛いとこもあるじゃない、などと微笑んだ。
その笑顔が、下に見られたようで気に食わない。
清雅は咄嗟に秀麗の目を覆い、室内へ引き入れる。
「お前は何も見ていない。いいな? わかったら黙って頷け。資料ならもう用は済んでいる」
「……はいはい。わかったわ。早く資料持って戻りたいんだけど」
「黙って頷けと言っただろう」
相変わらず偉そうな口ぶりだが、妙に拗ねたように聞こえてしまい、秀麗は緩みそうになる口元を引き締めて頷く。
どことなく居心地悪そうな雰囲気で舌打ちし、秀麗の目を覆っていた手が離れる。
「見るな。そのまま目を閉じてろ」
「は? 何でよ」
「……何でもだ。資料持って帰りたいんだろう? 大人しくしてろ」
実に理不尽な言い様だが、実際、清雅が扉を開けるまで結構な時間を浪費していた。
蘇芳一人に仕事を任せたままでは不憫でもあることだし、秀麗は大人しく頷いて開きかけた目を閉じる。
「これでいいんでしょ。早くしてよ」
秀麗がしっかり目を閉じている事を確認して、ようやく清雅は机案のすぐ横に積まれた書簡へ向かった。
資料を借りてきたのは、つい一昨日のことだったか。
これが必要になるような仕事は、今の秀麗に与えられてはいなかったはずだが。
大方、何か引っかかる事でもまた見つけたのだろう。
その目端の鋭さは、まぁ認めてもいい。
積み上げられた書簡をいくらか除けて、清雅は目的のものを取って振り向き、眉を顰めた。
目を閉じて、清雅が声をかけるのを待っているのだろう、その顔は。
視線の強さがない所為か、ただの少女のそれにしか見えなくて。
十人並みの容姿の、それこそつまらない女でしかなくて。
清雅は気配を殺して秀麗に近づく。
「……清雅、まだなの? 早くして欲しいんだけど」
痺れを切らして、というよりは、空気の変化を察してか。秀麗が怪訝な表情で急かす。
その言葉に、にやりと笑って清雅は秀麗に顔を近づけた。
「性急なことだな。まるで口付けでも強請ってるみたいだぜ?」
「はぁ!?」
艶めいた声で囁かれた秀麗は、思わず素っ頓狂な声を上げ、ついでに閉じていた目を開いた。
ごくごく近くで嫌味に笑う清雅の瞳に、目を丸くした自分の顔が映っている。
「ちょっと!? アンタ何してんのよ! 私が催促してるのは資料でしょ!!」
「相変わらず色気のない女だな。男の前で本気で黙って目を閉じてちゃ、普通何かされると思うんじゃないのか?」
「アンタが黙ってろとか、目を閉じてろとか言ったんじゃない! 私は早く資料を持って行きたいだけ!! それにそもそもアンタは普通の範疇外なのよ!!」
明らかにからかわれているのだとわかっていても、秀麗は清雅をきつく睨んで、きっぱりと言い切る。
何か、などあってたまるか、と思うし。心のどこかでほんの少し、清雅はそういった方向性のだまし討ちのような真似はしないとも思っている。
本人には絶対聞かれたくないし何があっても言いたくないが。
そういう意味では信用している、のかも知れない。もしかしたら。
「大体アンタ、自分でそういう女女したのは好きじゃないって言ってたじゃないのよ! 興味もないのに妙なこと言わないで頂戴!」
少しばかり近すぎる距離は、いかにそういう意識をしていなくても居心地悪い。
秀麗は清雅の胸を押して離れようとする。が、やはりそこは男女の力の差。びくともしない。
不愉快そうに半目で睨みつける秀麗の表情に、清雅はようやく満足そうに笑みを浮かべた。
「まぁ、そうだな。女女したのは好きじゃない。……だからお前は、悪くない」
「……はい?」
聞き間違いか空耳か。ぜひともそのどちらかであって欲しいと、恐る恐る清雅を伺う秀麗に。
それはそれは爽やか、故に胡散臭い事この上ない作り笑いで、清雅は言った。
「お前となら、そういう関係になってもいい、と言ったんだ」
「冗談止めてよ!! アンタが良かろうがどうだろうが私はご免よ! 断固拒否するわ! 私にだって選ぶ権利ってモンがあるのよ!?
って言うか何よ、そういう関係って! 嫌、もう、ありえない!!」
叫び出してもおかしくない勢いで、秀麗は心底本気で嫌がった。
後半は多少恥じらいが混じっていたような気がしなくもないが。
清雅はいっそ小気味良くて、くつくつと笑いを零す。
「……本気で失礼な女だな。当人の前でそこまで言うか、普通?」
「少なくともアンタは、普通が当てはまらない相手なんだから、このくらい言うに決まってるわ! 資料見つかったんでしょ?
用はそれだけなんだから、さっさと渡しなさいよ」
「へぇ……人から物を借りるのに、そんな口の利き方でいいのかよ」
ぐ、と息を詰まらせた秀麗は、腕組みしてにやにやと嫌みったらしく笑う清雅を射殺す勢いで睨みつけて、小さく呟いた。
「……貸してください」
「ま、いいだろう。ほら、持って行け」
ぽんと手にしていた資料を、軽く秀麗の胸を叩くようにして預け、扉を開ける。
隙間から、室内よりはいくらか涼しい風が吹き込み、秀麗の髪を揺らした。
「それじゃ、お邪魔様。……本気で過労死されたら迷惑だから、ちゃんと休みなさいよね」
去り際に、ふいと顔を背けて告げ、秀麗は今度こそ足早に駆けていった。
何で嫌っているだろう俺にまで、心配らしきものをしていくのか。
その甘さが、つくづく癇に障る。反面、妙にむず痒い。
閉めた扉に凭れて、清雅はぽつりと溜息を漏らした。
今日分かったことが一つある。
とにかく自分は、あの女の目が気に入っているらしいという事。
知ってどうなるものでもないが。