君と居る時の自分

しんと静まる夜更けに、掛布を肩にかけたまま、近藤は縁側に座して庭を眺めていた。
傍らには徳利が二本並んでいる。そのうちの一本は既に空だ。
松本からは当然、控えるようにと言われている。

「けど、さぁ……」
酒気を帯びた溜息が、白く煙って闇に溶けて消えた。 今はまだ、静かだとはいえ、いつ事が起こっても不思議ではない時勢にあって。
「こんな綺麗な雪景色を拝んで、雪見酒くらい楽しんどかねぇと……死んでも死に切れねぇや」
自嘲めいた笑みを浮かべ、近藤は杯を傾ける。 すっかり冷えてしまった燗の中身を注ぎきってしまい、あ、と声を零した。 もう一本、自分でつけるのは面倒だが、どうにも飲み足りない。 どうしたもんかねぇ。と軽い調子で呟いたとき。
「…………あれは」
さくり、と薄く積もり始めた雪を踏んで、鈴花が夜着に羽織をかけただけで庭を歩いているのが見えた。 漆黒の闇の中、はらはらと舞う雪が白く淡く光を放つ。 そこを歩く鈴花までも、雪が見せる幻のように儚く、近藤は自分が眠ってしまったのではないかと疑った。 俺ぁ、夢を見ているのかね。 たった一人の恋しい女が、眠れない己の不安を癒してくれようと姿を見せてくれたかと。 思ったのは束の間。すぐに、まだ幼い恋人は、今にも泣き出しそうな顔で空を見上げているのに気付いた。
「鈴花」
その瞬間には、何を考えるより早く、名を呼んでいた。 さほど声を張り上げたわけではなかったが、雪に音を吸い込まれる如き静寂の中には異質だったからか。 鈴花はすぐに振り向いた。 普段から明るく、強く、凛々しい彼女の、偶に見せるあどけない表情。 元々大きな目を丸く見開いて、数度瞬き、それからふわりと微笑んだ。 笑顔一つで、年甲斐もなく胸が高鳴る。
「近藤さん」
少し早足に、鈴花は近藤の傍へ歩み寄ってきた。 そして近藤の傍らに転がった徳利に気付いて眉を顰める。
「二本も……飲みすぎですよ? 松本先生だって、控えるように言われていたでしょう」 「うーん。まぁ、そうなんだけどねぇ……雪見酒も楽しめないなんて、つまらないと思わないかい?」
へらりと笑みを緩めて問うた近藤に、鈴花はしてやったりとばかりに笑って答えた。
「私はお酒が飲めないので、思いません」 「……あー。そういや、そうだったっけなぁ」 「お酒なんかなくっても、雪見は十分楽しいですよ。私もお付き合いしますから」
お酒じゃなくて、お茶にしましょう? と、可愛らしく首を傾げて強請る鈴花に、敵わないなと近藤は頬を掻いた。
「解ったよ。君が一緒に居てくれるってんなら、ま、酒は辛抱しようかね」 「ええ、そうしてください」 「その代わりに、なぁ……鈴花」
嬉しそうに頷いた鈴花の腰を、不意に抱き寄せ、近藤が声を低める。 自分の名前なのに、聞いたことのないような甘い音に聞こえて、鈴花は知らず頬を赤らめた。 ほんのり色づいた、美味しそうな頬に唇を落とす。 冷たい頬を軽く舐めると、化粧っけのない、鈴花の肌の甘さに舌が痺れた。 こんなにも、
「茶なんかよりも……君が欲しい」
たった一人を渇望する。こんな感覚は久しい、いや、もしかすると初めてかも知れない。 心のままに告げた近藤の背に、鈴花の手が触れた。 ガキじゃあるまいし。そう自分に言い聞かせなければ、堪え切れなかっただろう。 熱さを必死に飲み下して、優しげに言葉を促すと、鈴花が冷たい肌と裏腹に蕩けそうな視線を向けてきた。
「……わ、たしも、です」
その目で、その声で、その台詞は反則だろう。 鈴花の手が、背中に縋る。近藤は、自身の箍が外れる音を聞いた気すらした。 不自由な右腕がもどかしい。 頬を寄せて上向かせ、唇を重ねる。 直接触れれば折れそうに細く思える腰を、きつく抱きしめ、体温を移し合う。 常には暴かれない少女の肌に直接触れたいと気が逸っている。 反面、もっと口付けていたいとも思う。 離れがたくて、結局、息苦しさに鈴花が背を叩くまで深く唇を重ね続けた。
「あ……す、すまない」
不慣れな少女を気遣えなかった自分を恥じて、近藤が眉間に皺を寄せる。 近藤の頬に手を添えて、鈴花が甘く微笑んだ。
「……近藤さんの、したいように」
してください。 無垢な少女には不似合いな、際どい誘い文句に。 近藤は茶化して笑う余裕さえ失う。 それでも辛うじて。
「俺の部屋へ、行こうか」
そのまま事に及ぶことだけは避けることが出来て、そんな自分をどこかで笑った 遊び慣れているはずなのに。 彼女と居る時の自分は、まるで覚えたばかりの若造のようじゃないかと。