青い春、なんて似合わない

もっとも今は真冬で、春なんて欠片も見えやしないのだけれど。


陸清雅がいかに有能な官吏であろうと、人間である以上処理能力の限界はあるもので、ついでに言えば、一日の時間にも限りがあって。 端的に言うと、仕事が多過ぎて結局夜を明かしてしまったというだけの事である。 昨夜から酷く寒くて、明け方には火鉢で暖めている室内でさえ、吐く息が白くなった。 清雅は肩に掛けた毛布を外套のように纏い、立ち上がる。 身動き一つする度に冷気が肌に触れたが、さすがにずっと閉め切ったままでは空気が淀んでしまう。 窓を開けると、桟に積もっていた雪が落ちた。
「……道理で寒いわけだ」
思わず呟いた清雅の視界一面、白銀に染まっていた。 既に空は晴れていて、おそらく昼を過ぎた頃にはいくらか溶けてくるだろうと思わせる。 冷たい風に頬を打たれて、換気はまた後にするかと清雅は窓を閉めかけ、中庭を見下ろして止めた。 まっさらな雪の上に、ぽつぽつと残る足跡。 その主が、清雅と同じように毛布を纏い、そこに立っていた。 何をしているんだ、あの女は。 遠目でも、すぐに誰と知れる。大方、また泊まりだったのだろう。 背に流れる黒髪を揺らして、どこか楽しげに少女が雪の上で跳ねた。 新雪に足跡をつけて喜んでいるようだ。
「どこのガキだよ」
嘲るように言った。つもりだった清雅の声は、本人の意図に反して優しげだ。 何となくそれが気に食わなくて舌打ちし、清雅は今度こそ窓を閉めた。

早起きはするものだ。と秀麗は緩む口元を隠しもせずに思う。 確かに、とんでもなく寒いけれど。
「一番乗りの特権よねー」
さく、さく、さく。 真新しい雪を踏む音は軽やかで、ちらと振り返れば、てんてんと足跡が追いかけてくる。 前を向けば、まっさらな白い大地が待ち受けている。 そんな気分が心地よくて、秀麗はぴょんと飛んで両足で着地した。 瞬間。
「きゃっ」
飛び石か何かがあったのか、運悪く右足を滑らせた秀麗は、固く目を閉じて身構えた。 どすん、ばさばさばさ。そんな音が聞こえるはずだった。のに。
「ちっ……徹夜明けに肉体労働させるなよ」
などと、朝一番には聞きたくない嫌味な声が間近で聞こえて。 あまつさえ、想像したくないけれど、酷く密着しているらしく体温が伝わってくる。 見たくない。見たくないけど。 恐る恐る目を開けて、やっぱり見なかったことにしたい人物がそこに居て、顔を顰めた。
「助けた相手に礼も言わずにそんな顔をするとは、失礼なヤツだな」
くっと皮肉に笑う清雅から顔を背ける。 だが、不安定な体勢は、清雅の支えで辛うじて倒れずに済んでいるため、自力では離れる事も出来ず、秀麗は渋々口を開いた。
「助かったわ。どーもありがとう」 「感謝してるようには聞こえないが。助けない方が良かったのか?」
冗談ぽく手を緩めると、秀麗が反射的に清雅に縋りつく。 ああ、このまま押し倒しでもしたら、どんな顔をするのだろうか。 清雅が黙り込んだ一瞬のうちに、秀麗は我に返って手を離した。
「そ、そうね。いっそ思いっきり滑って転んでたんこぶでも作った方がマシだったけど、 でも助かったのにわざわざ自分から冷たい思いしたくもないから、このまま起こしてくれるといいんだけど。 ああ、でもアンタにお願いなんかするぐらいなら、手を離してもらった方がいいわよね。オホホ」
狼狽えているのか、目を合わせないようにしながら捲くし立てる秀麗に、清雅はようやく笑みを浮かべる。 もちろんそれは嫌味と皮肉と嘲りが主成分の。 秀麗が大嫌いで、清雅によく似合う性質の悪い笑顔。
「可愛くない女だな。素直に言えば、甘やかしてやるぜ?」
朝っぱらから聞くにはあまりに艶やかな声に、色事方面に耐性のない秀麗は、清雅なんかにと思いながらも頬を朱に染めた。 腰砕けになりそうな身体に鞭打って、必死に不機嫌な表情を崩さないよう力む。
「むしろ、頼まれたってアンタにだけは何があっても甘えたくないわね」 「ま、そうだろうな」
そうでなければ面白くない。 余裕の表情で、清雅は思いの外あっさりと秀麗を抱き起こした。 そして、すっかり冷え切った秀麗の肩に、自分が纏っていた毛布を掛けて、代わりにと、雪に塗れた毛布を拾い上げる。
「べ、別に要らないわよ! もう室に戻るし、アンタの体温が残ってると思うと気持ち悪いじゃない!」 「気持ち悪いとは、随分な言い様だな。……いいから使え。それとも冷たい毛布が恋しいのかよ?」 「そういう訳じゃないけど。アンタが風邪でもひく方がよっぽど迷惑なのよ!」
秀麗は、清雅の手から冷えた毛布を奪い取り、自分に掛けられた毛布をつき返して走り出す。 ああ、馬鹿な女。それとも、懲りないと称するべきか。 清雅が追いかける目の前で、案の定。
「きゃあっ」
滑った秀麗の背中を受け止め、清雅はわざとらしく溜息を吐いた。 表情は見えないが、秀麗が小さく唸っているのが聞こえる。
「……で、何か言うことがあるんじゃないのか?」 「……ありがと」
意地悪く笑う清雅に、今度は素直にぽつりと、きっと不満げな顔で、秀麗が答えた。
「まったく……お前は学習能力のないガキかよ。毎回毎回俺が助けてやるわけじゃないんだからな。むしろ二度も助けた俺の親切心に、俺が吃驚だ。 それとも、本気で転びたかったのか? だとしたら邪魔して悪かった、と言うべきか」 「こ、転びたかった訳じゃないわよ。そりゃ、まぁ、ちょっと……さすがに今のは私が迂闊だったかも知れないけど……」 「ああ。迂闊だな。今に始まったことじゃないが」
今度は自力で体勢を立て直し、そそくさと歩き出した秀麗の隣に並んでニヤリと笑う清雅に、ふと秀麗が振り向いた。 これほど冷えた冬の空気の中でさえ、冷たい、と感じさせる苛烈な眼差し。
「お礼にお茶を淹れてあげる。それでチャラよ」 「……まあ、そういう事にしてやる。どうせ安い茶葉だろうが」 「失礼ね!」
薄く笑った清雅に、噛み付くように文句を並べながら歩く秀麗を、気持ち見下ろしながら。 そう、生温い春なんて似合わない。 俺とお前に似合うのは、せいぜい極寒の真冬くらいだろう。
だから、こんな生温い想いも不要なものだ。