子供みたいに繰り返す

長官室から出て来た秀麗と、これからそこへ向かう清雅が、廊下でかち合うのはごく当然のことだった。

「げ」
向かいから歩いてきた清雅に気付いた瞬間、秀麗は露骨に顔を顰める。 一方の清雅は、気付いた瞬間楽しげに笑みを浮かべた。
「なんだ。紅御史は、先輩に対して挨拶一つまともに出来ないのか?」
十分に声の届く距離まできて立ち止まり、清雅が尊大に腕を組んで見せる。 くっ、と悔しげに口をへの字に曲げて、秀麗はほんの僅かに頭を下げた。
「お疲れ様です、陸御史」
一瞬だけ。すぐに顔をあげ、不機嫌極まりないとばかりに清雅を睨みつける。
「はい、これでいいんでしょ! あんた廊下で顔合わせるたびに、一々それ言うの止めなさいよね。器の小ささが知れるわよ?」 「心外だな。俺はわざわざ親切で、後輩に礼儀の指導をしてやってるんだぜ? お前が自主的にやってれば、一々言わずに済むんだがな」 「冗談じゃないわ。先輩っつったって、官位で言えば同等だし年だってさほど違わないでしょ!  それに、あんたが尊敬できる先輩なら言われなくたって挨拶くらい喜んでやってるわ! ありえないけど!」 「俺ほど御史として尊敬できるヤツなんて他にいないだろうが。失礼な女だな」 「寝言は寝てから言って頂戴。あんたほど人間的に尊敬できないヤツはそういないわよ!」
きつく目元を吊り上げて、清雅の返す一つ一つに否定の言葉を投げつける秀麗は、彼の目にずいぶんと魅力的に映る。 こうして言い合っている間、彼女は清雅以外の何も見ていないから。 その目も、思考も、自分にだけ向けられているのだと、優越感に浸る。
「はぁ……ここでいつまでもあんたとじゃれてる暇ないんだったわ。どいて頂戴」
溜息を吐いて目を逸らした瞬間、清雅の心中に小さな火が点った。
「別に狭い通路でもないんだ。勝手に通ればいいだろ?」 「……ええ、そうね。そうさせてもらうわよー」
自棄のように言い捨て、秀麗は清雅に目を向けないまま横を通る。
すれ違う瞬間、結い上げた髪を纏める布の端を掴んで、くい、と引いた。 はらりと解けた布を手に、相手の反応を待てば、長い髪を靡かせて振り向くのは、予想通りの怒り顔。
「ちょっと、何すんのよ!!」 「さあな」 「さあな、じゃないでしょ!? 子どもの悪戯みたいな嫌がらせしないでよ、気持ち悪いわね!!」
音がしそうな勢いで、清雅の手から髪留めの布を取り返し、秀麗はさっさと踵を返した。 後姿に長い髪がゆらゆらと、主の態度にそぐわぬ可憐さで揺れる。 清雅は、彼女が与えられた室に消えるまで、何食わぬ顔で見送り、笑った。
そう。烈火のような眼差しで、自分を睨んでいればいい。 他の事に気を取られている暇など、与えない。
秀麗の室から、腹立たしげな声が微かに漏れ聞こえてくるのに、ようやく満たされて、清雅も行くべき場所へ足を向けた。

同時進行していたいくつかの仕事の報告を終え、新しい仕事を受けて長官室を出たその時。 今度は資料室へでも行くのだろう両手一杯に書簡を抱えた秀麗の背中が目に入った。 先ほど解いてやった髪は、しっかり結い直されている。 清雅は足音を殺して、よたよたと危なげに歩く秀麗に近づいた。
「大変そうだな。手伝ってやろうか?」 「うげ」
声だけで相手が誰か察した秀麗が嫌そうな声を上げて顔だけで振り向く。 鋭い視線が向けられて、清雅は、まるで恋しい相手を見るように笑った。
「結構よ! これは私の仕事のうちだし、あんたに借りを作るのは真っ平ごめんだわ」
秀麗はつんと顔を背け、清雅に構わず危なっかしい足取りで再び歩き出す。 が、ざっと見たところ、その資料は全て府庫のもののようだった。 この調子では戻るまでに一刻は掛かるのではなかろうか。
別に心配などしてやっているわけじゃない。と自答して、清雅は秀麗の髪留めを引いた。 ふわりと零れる黒髪は、それだけは少女めいて美しい。 が、感触に気付いて視線をぶつけてくる秀麗の表情は、苛烈といって言いほどだろう。 少女めいて、など欠片も思わせない強い瞳は、こちらのほうが美しく、清雅にとって好ましい。
「ちょっと、あんた! もしかしてまた!? あーもー、何してくれんのよ!!」 「手が空かないと結い直しもできないな。……手を貸してやってもいいぜ?」 「呆れた……まさか本気で手伝いたくて、わざわざこんな意味のわからない嫌がらせしたの?」 「……さあな」
どうしても手伝いたいわけじゃない。などと口にしても、行動からは否定する要素が見あたらないな。 自嘲気味に苦い笑みを浮かべた清雅に、柔らかさのある溜息を零して、秀麗が言った。
「髪、直したいから荷物持ってくれると助かるんだけど。あと、それ返して」
それ、と目線で示した薄紅の布。 清雅は自身の言動について考えるのは保留にすると決め、秀麗の腕に布をかけ、そこから書簡の束を纏めて抜き取った。 さすがに少しばかり重い。秀麗がよろめくのも無理はないかと、髪を結い直すのを眺めて思う。
慣れているとは言え、道具もなしでは上手くいかないのだろう。 秀麗はしばらくして、少し高い位置で髪を一つに纏めることでとりあえず凌ぐことにした。
「もういいわ。その……ありがとう。元々あんたの所為だけど!」 「どういたしまして。ほら、さっさと行くぞ」
秀麗の腕に、当然のように預かった書簡の半分ほどを返し、清雅は先を歩き出す。 すぐに小走りの足音が後を追ってきた。ちらりと横目で見ると、束に結われた黒髪が、忙しく左右に揺れている。
「ちょ、ちょっと……別に持って行くのまで手伝ってくれなくていいんだけど」 「遠慮するなよ。どうせお前のあの調子じゃ、途中で誰かにぶつかって余計な時間を食うに決まってる。  こんなくだらない雑用で仕事が遅れちゃ、俺にとっても迷惑だからな」 「……悪かったわね」
さすがに自覚はあったのか、秀麗は唇を尖らせて不本意そうに呟いた。

府庫に資料を返し、必要な資料を借りて御史台に戻る時には、秀麗の腕には行きと同じだけの書簡が抱かれていた。 清雅は、仕方ないなと大げさに溜息を吐きながら、またも勝手に半分ほどを奪って歩く。
「お前、もうちょっと考えて行動したらどうなんだ? 一度にあれもこれも纏めてやりたがる貧乏性には同情してやってもいいが」 「失礼ね! こう言うのは貧乏性じゃなくて、効率的って言うのよ!!」 「それでよたよた歩いた挙句どこぞで転んでばら撒いて無駄な時間を食うのが効率的か? 笑わせてくれるぜ」 「うっさいわね! ほっといて頂戴!!」
幸いと言うべきなのかどうなのか、二人は行きと同様、誰にも声をかけられず激しく言い争いながら御史台に帰り着いた。 秀麗が室の前で深々と疲れの見える溜息を吐く。その腕にどさりと書簡の束を落とし、清雅はわざとらしく肩を回す。
「やれやれ、どこかの誰かさんが強欲なおかげで無駄な体力使わされたぜ」 「私が頼んだわけじゃないわよ!! ……でも、まあ……助かったのは確かだから……ありがとう」
至極不本意そうに、目を逸らして微かな声で呟いた秀麗を見下ろして、清雅は薄く笑いながら戸を開いた。
「どういたしまして。今度からは俺の手を煩わせないで済むように、精々気をつけてくれよ」 「言われなくたって細心の注意を払ってやるわよ。あんたと遭遇しないように」
両手一杯の書簡を抱えて、清雅の顔を見ず、秀麗は室に足を踏み入れた。 目の前で、簡素に纏められた黒髪が、誘うように揺れる。 清雅は気まぐれに、髪結いの布を引いた。
その感触に慣れた秀麗が、髪を靡かせて振り返る。 眦を吊り上げて清雅を映す瞳には、他の何も映らない。 その瞬間、確かに秀麗を独占しているのだと清雅は笑う。
「あ、あんたねえ! 何回同じ嫌がらせ繰り返すのよ、子どもじゃあるまいし! 本気で気持ち悪いんだけど!?」 「何なら俺が結い直してやるぜ?」 「結構よ!!」
秀麗は、行儀がよろしいとはとても言えない器用な足で、勢いよく戸を閉めた。 どさどさと書簡をばら撒く音と共に、秀麗の怒声が聞こえてから、清雅は自分の室へ足を向ける。 ふと、手元に目を向ければ、秀麗に取り返すのを忘れられた薄紅の布が揺れていた。 あんたなんかに負けてたまるもんですか。そう言い放つ秀麗の顔が浮かぶ。
ああ、そうやって俺だけを見ていろ。その目をしているお前のことは。 嫌いじゃないからな。