雷雨の日には叫び声

ゆらり。炎が揺れる。
夜とは言え、閉め切った室内は炎の熱が篭ってしまい、蒸し暑く感じられる。
顎を伝った汗が垂れる前に袖口で拭い、秀麗は筆を置いた。
長い時間机案に向かっていた所為で強張った身体を大きく伸ばし、息を吐く。

「はぁー……やっと終わったわ……」

すっかり凝ってしまった首を回してから、少しばかりだらしなく椅子に凭れて、今しがた書き終えたばかりの書簡に目を通す。
問題は無い。はずだ。あとは、明日の朝一番で長官のもとへ届ければいい。
秀麗は、確認した書簡を丁寧に纏めて引き出しに仕舞うと、仮眠用の布団を広げた。

「また泊まりかぁ……すっかりここに泊まるのにも慣れちゃったわね」

自嘲気味に呟く声に、常ほどの覇気は無い。
疲れの所為もあることはあるだろう。
だが、それ以上に秀麗の気を削いでいるのは、半刻ほど前から徐々に近づいているらしい遠雷の音。
既に雨は降り出していることからも、間近で鳴り出すのは時間の問題と思える。

「早く寝ちゃいましょ。寝てしまえば聞こえやしないわよ。大丈夫、大丈夫」

無理やり明るい声色で自分を励ます。
だが、そうして独り言を重ねるのは、恐怖心を必死に誤魔化そうとしている証拠だろう。
結い上げた髪を解く手が、かすかに震えていた。

火を消すのが、怖い。

などと、とても言えたものではない。
しかし灯りがなくなれば、稲光がより際立って見える。
室の戸締りを確認してから火を消そうと、僅かばかりの時間稼ぎを思いたち、戸に近づいた瞬間。

外から戸が開かれたのと、ごく近くに雷鳴が響いたのは同時だった。

「きゃああああああああああっっ!!!!」

訪れたのが誰かを確認するより、その誰かが口を開くよりも早く。
秀麗は雷鳴を掻き消さんばかりに叫びながら、目の前の人物にしがみ付いた。

「うわっ」

いきなり抱きつかれた相手が声を上げたが知った事じゃない。
胴が細いとか、妙に品の良い優しい香りがするとか、唇が肌に触れているのか温かくて気持ちいいとか。
思ったところで、これは誰だろうと疑問を抱いた。が、

「いやああ「……ちょっと黙れ」んぐっ!!」

確実にどこかに落ちただろう雷鳴で頭が真っ白になり、再び絶叫しだした口を誰かが塞いだ。
「んー!んー!!」と、尚もお構い無しに叫ぶ秀麗の腰を片手で担いで室へ入り、戸を閉める。
いくら御史台や付近に残っている官吏がいないだろうとは言っても、こんな夜更けに女の悲鳴など響かせて、万に一つでもあらぬ疑いをかけられては迷惑だ。
というより、廊下では音が反響して一層煩くて敵わないというのが正直なところか。
清雅は己の胸に縋りついてぴーぴーと泣き喚いている女を見下ろした。
手で口を押さえていても叫ぼうとしている所為で、掌がこそばゆい。
どうしたものかと室を軽く見やりながら思案し、仮眠用の布団が広げられているのを見取って、即座に行動に移した。

べり、と音がしそうな勢いで張り付いていた秀麗を引き剥がして布団の上に転がして、傍らに座り、
予想以上の速さで再び清雅にしがみ付いてきた秀麗を胸元に抱き込んだ上から毛布を被せる。

存在を忘れられていた蜀台の火がじじ、と鳴いて消えかけたわが身を主張した。


暑い。片手で首元を緩めたが、室内の空気自体が温くなっていては、さして効果は無い。
頭から毛布を被っているこの女など、よほど暑苦しそうなものだが、当人は呆れ顔で見下ろされていることなど知りもせずに、
未だにしゃっくり上げて泣きながら叫んでいた。

「はやく、どっかいってよぅ……っ! かみなり、きらいっ!!」

駄々をこねる子どものように、清雅の胸に顔を押し付けて首を振る。
おかげ様で官服はきっと涙に濡らされた挙句、皺だらけになっていることだろう。
清雅はつまらなそうに溜息を吐いた。

「あぁ……早く止めばいいな」

伝えるつもりもなく、呟いた言葉。心底、そう思っていた。

そもそも秀麗の室を訪ねたのは、雷嫌いだと言う彼女をからかって遊ぶつもりだったから。
ところが、こうして取り乱す姿を見て、楽しむどころか、興が冷めてしまった。
弱みを掴ませまいと足掻き、あまつさえ清雅に噛み付いてくる気勢と度胸が気に入っているからこそ。
そこらの娘と変わりない、と言うには少しばかり煩すぎるが、弱みを隠そうともしない姿は、つまらないと思った。

「早く、気付け」

そして、自分が誰に縋って泣き喚いていたかを知って慌てふためけばいい。
泣き腫らした目で俺を睨み、悔しそうに礼を言って、俺の嫌味に歯向かって来い。
そうでなければつまらない。

「いや」

不意に、秀麗がはっきりと言った。悲鳴ではない言葉。
訝しげに顔を向けた清雅の目に、毛布を避けて思いの他しっかり見上げる秀麗の瞳が映った。
案の定、泣き腫れた目は赤くなっている。
秀麗の表情がくしゃりと歪んだ。泣き出しそうな、悔しいような、怒っているような、読めない表情。
また、清雅の胸に埋もれるように縋りついた。

「今日は、いや。気付かない」

だから、まだ。優しくしてよ。
声に出したか、それとも単なる錯覚か。解らないまま、清雅は諦めのような溜息を零した。

「わがままな女だな」

不機嫌な声。だが、言葉の端々に笑みが滲んでいた。
清雅の手が、秀麗の乱れた髪をそっと梳いていく。
じ、とかすれた音を残して、蜀台の火が姿を消した。

「くそ、暑いな」
「我慢して、私も暑い」

「なら離れろ。でなきゃ脱げ」
「どっちもいや」

「傲慢な女だな」

呟いた声がひどく甘くて、秀麗は聞こえなかったフリで再び言葉を強請った。

「今、なんて言ったの」

本当は聞こえていたことなど気付いている。
それでも清雅は、鮮やかに、妖艶に微笑んだ。

「傲慢な女」

二人の距離が限界まで近づく。



雷鳴が響き、稲光が届いても、秀麗はもう叫ばなかった。