雨の傷跡

さらさらと。
耳元で囁くように、微かに、ずっと。
その音は響いていた。


「母さん!」
少年の声に、路傍に倒れていた女がゆるりと顔を上げた。 泥に塗れていてさえ美しい女は、弱々しく微笑む。
「母さん、こんな……酷い」
悲痛な呟きに、女が手を差し伸べた。 少年の頬を撫でる、凍えるほどに冷えた手のひら。 女が手を離し、濡れた大地に文字を綴る。
 さ が し て
目を見張る少年に、女は口に隠していた物を落とした。 金細工の小さな紋章。 思いがけない強い力で、それを少年に握らせる。
「あなたの、妹、を……」

        


雨音にかき消された最後の言葉。 受け取って、少年は顔を上げた。
ぎらつく瞳で道の先を睨み、迷うことなく駆け出した。 疲れきっていたはずの足でぬかるんだ土を蹴る。 紋章を左手に握り、右手で腰に差した剣を抜いた。
さらさらと。 煩わしいくらいの雨音の向こうから。 はっきりと、泣き声が聞こえてきた。
獣の如く雄叫びを上げ、学んできたはずの技も忘れ。 少年は剣を振り回す。
男の手に抱かれた赤ん坊。
切っ先が届くかと思えた次の瞬間。
肩に感じた痺れるような痛みに、握り締めた手が緩んだ。
「構うな。早くこの方をお連れせねばならん」
男の声と、遠ざかる赤ん坊の泣き声を、少年は地に伏して聞いていた。 剣を手放し、母が最後に託した紋章を、右手できつく握っていた。

「ごめん……母さん。ごめん……」
仰向くと、雨は、いつの間にか止んでいた。


 ぱらり、ぱたん


私は、そしてまた後悔を覚えた。 好奇心が殺すのは、猫より先に、私なのだ。
「何だ、先に食っててよかったんだぞ?」
カイの笑顔に返す言葉を私は持ち合わせていない。 俯き、目を合わせずに席を立った。 謝罪も言い訳も、きっと声に出せば弱音に変わってしまうから。

さらさらと。 耳元で囁き続ける静かな雨音に、責められている気がして。 毛布に埋もれた私の小さな嗚咽だけが、今は逃れる術だった。