エスト

 いつまでも降り続ける桜の中で、彼女は静かに泣いていた。
 それが、彼女との幻の如き出逢いだった……

ぼくはエスト。 そう名付けられた。 年齢も、家族も知らなかった。 ただエストと呼ばれる以外の何も、知る必要はなかった。 ぼくは、家族ではない者と共に生きた。 食事に困ることなく。 衣服は必要なだけ与えられ。 寝床でだけは十分に休むことが出来た。 けれど、友も家族もいなかった。 誰がいついなくなるか。 誰にいつ殺されるか。 不安でも恐怖でもなく。 悲しいとも思わなかった。 ただ生きていたい。 それだけを願った。 それだけの為に生き続けてきた。
ぼくに何を望まれているか。 ぼくはそれを知らなかった。 知ろうともしなかった。 けれど。 あの人に出逢って初めて、知りたいと思った。

その日、ぼくは本当に偶然に外へと出ていた。 目的は何もなく。 ただ漠然と、そらがきれいだと思っていた。 共に生きる者の数が、随分減っていた。 何故かと、考えはしていなかった。
ふらりと。 大きな建物の裏庭へと歩いて。 そこには誰もいなかった。 静かに、風が吹くだけ。 それはとても心地よい静寂だった。

不意に吹き抜けた強い風。 乱された髪を撫でた手に、薄桃色の花弁。 風の余韻に舞う。 薄い桃色の霧が掛かったのかと思った。 散りゆく花弁だと気づいたのは、僅かに覗いた桃色のおかげ。
隠すような常緑の木々の奥へと進めば、ぼくを迎えた満開の花を抱えた一本の木。 優しくそよぐ風にさえ、惜しげもなく花弁を散らすその姿。 潔くも、どこか切ない。 ぼくは、時間を忘れてその光景に見入っていた。

どれほどそうしていたのだろう。 ぼく自身さえ気付かぬうちに、ぼくは頬を雫に濡らしていた。 悲しいわけでも、辛いわけでもないのに。 指先で拭ってもすぐにまた、雫は溢れて頬を伝う。 不思議な気持ちで、顎から地へと落ちた雫に視線を向けた。
そのときになって、ようやく人の気配に気がついた。

見知らぬ人。 共に生きる者ではなく、生かす者でもなく。
ごめん。
と、その人は言おうとしたのだろう。 ぼくはその声を聞くより早く、踵を返した。
花弁が、鮮やかに舞う。 強い風に、ぼくの長い髪が乱れた。
それでも走った。 何故だか、あの人と話すのが怖いと思った。 同時に、あの人と話したいとも思った。

追われる気配はなかった。
建物に近づくと、妙に慌しい事に気付いた。

 ……侵入者が……
 ……マシンの数を……

生かす者、ぼくらがサーと呼ぶ者たちが話している声が聞こえた。
思い出した、あの人の姿。 侵入者があの人なら、マシンとは……何か。
考え始めたぼくは、カプセルベッドへと押し込まれた。 忙しく響く靴音。 僅かに聞こえる声は、数を数える。

ぼくは……。 ぼくらは何なのか。
知りたい。

狭いベッドの中に、ひらりと薄紅が舞った。