「ナイチンゲールの歌声」
私は今日も、いつもの場所へ足を運ぶ。
偶然見つけた私の宝物。
綺麗に整えられた中庭と違って、手の入ってない寂しい裏庭の、焼却炉の近く。
良かった。今日もいた。
聞こえてくるのは、男の人の声。歌声。
『飛べないなんて泣かないで、君はまだ羽ばたく術を知らないだけ』
いつも同じ歌だから、いつの間にか私も覚えてしまった。
多分、職員の人なんだろうけど。
まだ確かめたことはない。知りたくないような気もしてる。
『恐れないで、泣かないで、君の空は君が思うより遠くない』
入院したばかりで、リハビリが辛くて泣いていた時に、初めて聞いた。
場所に似合いすぎてくだらないと思ったけれど。
『だけど、どうかまだ行かないで、と願う僕はどうかしてるね』
てっきり応援ソングだとばかり思っていたその歌は。
女々しい恋愛ソングで。八つ当たりしようと思ってた私の足を止めた。
『いつか羽ばたくその時が、少しでも先であるように』
病院で歌うには、ちょっと不適切なんじゃないかと思うような歌詞が、私は気に入ってしまったんだ。
妙に切なく聞こえる声の所為もあるかも知れない。
『今はまだ、僕の隣で歌っていてよ、ナイチンゲール』
入院生活はもう半年も経っていて、ついでに言えば、退院の日取りも決まっている。
正直、リハビリは苦しくて何度も泣いたし、諦めたくもなった。
だけど続けられたのは、ここでこの歌を聞けたから。
「……今はまだ、僕のとなりで歌っていてよ……ナイチンゲール」
タイトルも知らない歌なのに、歌詞もメロディもすっかり覚えてしまった。
もうすぐ退院するからこそ、この歌声の主にお礼を言うべきだと決意してきた。
のに、いざここにくると足が止まってしまう。という事を、この数日繰り返してる。
「……はぁ。こんなんじゃ、お礼言えないまま退院する羽目になっちゃうよ」
「こんな所で悩み事か? 俺が相談にのってやるぞ」
「んー……あのね、」
私を勇気付けてくれた歌声の人にお礼を言いたいんだけど。
と言いかけて、ゆっくりと振り向いた。
「なんだ?」
にっこりと、ちょっと意地悪楽しそうに笑った、私の担当看護士のお兄さん。
なんで看護士やってるのって聞きたくなるような、ちょっとワイルド系のカッコいい男の人。なんだけど。
「ななな、なんでこんなトコに!」
「それは俺が聞きたいっつーの。そろそろ病室戻んねーと定期検診の時間だぞ?」
「あ……うん。わかった」
時計を見れば、確かにいつのまにかそんな時間になっていた。
思わずため息が零れる。
「どうした?」
「うん……」
病棟に向かいながら、ついぽろりと言葉が落ちてきた。
「私のナイチンゲールさんに、退院する前にお礼言いたいな……って」
「は? ナイチンゲールさん?」
びっくりした声に、はっとして顔を上げた。
しまった。口が滑った。私だけの宝物だったのに。
「あああ、あの、その、何でもないの!」
慌てて否定する私の声を聞いていないのか、お兄さんは顎に手を当ててしばらく考えてから。
ふと何かに気付いたような顔で私を見下ろした。
「ひょっとして、お前聞いてたのか……?」
「え?」
今度は私が聞き返す番だった。
聞いてたのか、って質問の仕方はまるで。
「うわ。はっずかしーな。誰も来ねーと思ってたのに」
まるで、歌っていたのは。
「……お兄さん、だったの?」
「コレだろ?……飛べないなんて泣かないで……」
そうして歌われる旋律は、間違いなくさっきまで聞いていた歌声と同じで。
ああ。そうやって聞いてみれば、確かに聞こえ方こそ違っても同じ声だとわかる。
なんで今の今までちっとも気付かなかったんだろう。
「ちょっと予定狂ったけど、ま、結果オーライかな」
照れくさそうに笑って、お兄さんが足を止めた。
振り返って、私を見つめる瞳が優しくて、くすぐったい。
なんでそんな顔してるの。まるで。
そう、まるで。愛の告白をするみたいな。
「お前が退院する時に、この歌をプレゼントするつもりだったんだ。……個人的にな」
「……なん、で?」
なんとなく。わかるような、でも思考停止してるみたい。
返事を待つ私に目線の高さを合わせて、お兄さんが笑った。
「お前に惚れてるから、だよ」
今まで聞いた歌声よりも、ずっとずっと甘い声。
私のナイチンゲールは、私だけの愛しい人に、いつの間にか変わっていた。